Canon AE-1

1976年(昭和51年)4月発売 第一次一眼レフブームの立役者

Canon AE-1 FD50mm F1.4S.S.C.付き
Canon AE-1 FD50mm F1.4S.S.C.付き

【連写一眼】

1976年(昭和51年)3月、Canon New FTb 後継モデルとして Canon AE-1 が発売されました。このCanon AE-1は、カメラの電子制御技術を大幅に推し進めたカメラとして歴史に名を残す名機と呼ばれる一方で、ミリオンセラーモデルとして一眼レフ・ブームの起爆剤ともなりました。

 

 キヤノンが AE-1 で達成した最も大きな技術革新は、精密光学機器分野に属していたカメラの技術に、大幅な電子制御技術を導入したことです。もちろんそれまでも部分的な電子化技術は各社で製品化されてはいましたが、電子演算処理回路(CPU)を用いた大幅な電子制御化は他に類を見ないものでした。このAE-1を皮切りに一斉に一眼レフカメラの電子化が進み、現在のデジタルカメラへと結びついています。

 

Canon AE-1は、【連写一眼】というキャッチコピーとともに大流行、発売後1年半の1977年10月には累計出荷台数で100万台を突破し、生涯累計出荷台数も400万台の規模にも達するなど(後のモデルチェンジ機種を含めると約850万台)世界的にも大流行となりました。

 

AE-1がカメラの技術改革を起こし大流行となったことで、乱立気味であった国内カメラ業界再編のきっかけとなったと言われています。AE-1発売後数年のうちに、1960年代に活躍したミランダ、トプコン、ペトリといった中堅専業メーカーをはじめ、コニカなどのメーカーも次々に一眼レフカメラ撤退へと追い込まれていきました。

 

このAE-1開発プロジェクトがスタートしたのは1974年1月で、総勢100余名の大がかりなチームで取り組んだそうです(新機種X開発計画ともXタスクとも呼ばれていました)。プロジェクト開始の2年後には発売にこぎ着けているのですから、相当急ピッチで開発が進んだものと思われます。キヤノンという会社はその後、OA機器やコンピュータ産業にも大きく関わってきており、当時から経営陣の電子技術に対する意欲が並々ならぬものであったという現れであったかもしれません。

 

このAE-1により、いままでマニュアル露出カメラの難しさで敬遠していた人たちが次々に買い求めました。ファミリーにも一眼レフを。こうした流れを初めて作ったのが AE-1であり、これが国内で初めての一眼レフブームもたらしたと言えます。

 

AE-1は、そのくらい画期的な電子制御カメラであったのにも関わらず、キャッチコピーは何故か【連写一眼】。連写という言葉はオプションとして設定されていたワインダーを指しています。電子制御ということが訴求しにくかったのか、それまで自動露出イコール初心者向けという風潮を嫌ったのか、連写に軸をおいたキャンペーンの仕方には興味のあるところです。「連写」というコピーにつられてワインダーを買い求めたユーザも多かったことでしょう。この後Tシリーズ以降はカメラから巻き上げレバーが姿を消し、巻き上げの自動化は当たり前の機能になっていきます。

 

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コラム:AE-1は本当に世界初のマイクロコンピュータ搭載カメラだったの?

Canon AE-1を歴史的に伝える様々なウェブサイトやカメラ雑誌・ムック本などを見ますと、一様に AE-1は世界初のマイクロコンピュータ搭載一眼レフカメラであると位置づけています。私はこのことに疑問を持ちました。いわゆるマイクロコンピュータという技術用語の定義を、「メモリ上に記憶されたソフトウェアを取り込んだり入力データを取り込むことで所定の処理動作を行ったり演算・計算処理を行うことで得られる結果を出力するデジタル論理回路を構成する半導体集積回路素子」であるという前提で捉えれば、1976年3月発売で累計400万台もの売り上げを記録した応用機器として、AE-1はマイコンの歴史上には記録されていないのです。

 

事実を確かめようと、キヤノン博物館(ウエブサイト)を確認してみますとこれが曖昧な状態です。歴史館にあるキヤノンカメラ史(詳細)では明らかにCanon A-1を初めてのマイクロコンピュータ搭載と表現しているのに、カメラ館にあるAE-1の項目ではAE-1を初めてのマイクロコンピュータ搭載という矛盾を起こしています。

 

いろいろ探し回りましたがもう35年近くも昔のことなので当時の資料を集めることは容易ではありません。でもついにそれらしい資料に行き当たりました。それはアサヒカメラ誌が当時毎号掲載していた「ニューフェース診断室」という新しく発売されたカメラのレビュー・テスト記事に AE-1が登場したときに触れられていました。それは 1976年8月号に掲載されたものです。また後のA-1登場の際の記事 (1978年6月号)でも触れられています。引用は避けますが、要するにAE機構の殆どはアナログ演算回路により行われ、一部のデータ記憶部分だけデジタルメモリ回路を構成したというものです。

 

やはりそうでした。確かにAE-1では自動露出だけでなくシャッター動作やワインダーの連写・フィルム送り、セルフタイマーやストロボ同調設定などの自動化が組み込まれていますが、いずれもマイコンを搭載しなくても実現できるものです。AE-1に使用された制御用デバイスには I2L (アイ・スクエア・エル) という特殊な低消費電力型 LSIが採用されましたが、その中身はアナログコンピュータとも言えるオペアンプを応用した演算回路が組み込まれており、その電子演算回路技術は当時の電子技術から見ても技術の先端であり、後の人々がこれをマイクロコンピュータと見間違えても仕方がないほどであったと感心するものです。

 

AE-1の開発が開始されたと言われる1974年といえば、有名なインテル8080Aという8ビットプロセッサが発表された年ですから、マイコンとしてはまだまだ初期の段階で、8080Aですら売れずに困っていたころなのです。その一方でオペアンプは制御用途として盛んに使われ出していました。ちょうどアナログ演算回路からデジタル演算回路へと時代が移っていく過渡期にあったわけです。

 

もうひとつ面白い事実がわかりました。AE-1がなぜデータ記憶だけをデジタルメモリにしたのかという点ですが、記事によれば旭光学(ペンタックス)が所有していたAE一眼レフの特許 (コンデンサーにメモリする方法) を避けるためだったそうです。そのためにわざわざデジタルメモリ回路を構成させたというのも興味深いと言えます。

※この時計の時刻は、閲覧しているパソコンのものであり、必ずしも正確な時間とは限りません
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